船久保英一先生の想い出
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    藤田 稔(旧制応化28年卒、船久保研究室卒業生)
    石油分析化学研究所 研究所長
    工学博士(大阪大学)技術士(化学部門)




    一、平成三年五月 
     
     大阪大学名誉教授、富士デヴィソン化学(株)技術顧問、理学博士、船久保英一先生は平成三年五月二十四日夕刻、芦屋の御自宅において、眠るが如く逝去されました。御年九十一才八ヶ月でした。
     御葬儀は二十七日午後一時より芦屋市川西町如来寺でしめやかに挙行されました。
     四十九日の御法要は七月七日に行われ、御遺骨は仙台市松音寺に八月三十一日に納骨されました。
     御法名は瑩照院硯峯観英大居士であります。
     船久保英一先生の弟子の一人として、先生の御研究の歴史、先生の業績、先生のエピソードを御紹介したいと思います。
     
    二、先生の御経歴

     先生は明治三十二年九月十日新潟にお生れになり、間もなく御尊父のお仕事の関係で仙台にお移りになられました。
     大正六年三月宮城県立仙台第二中学校を卒業され、同年八月第二高等学校二部甲類に入学され、九年七月同校を卒業され、同年九月に九州帝国大学工学部応用化学科に入学され、十二年三月に同校を卒業され、同年五月に東北帝国大学理学部大学院に入学され、御研究に勵まれ、昭和二年十二月「有機ヒ素化合物に関する研究」で理学博士の学位を受領されました。御年二十八才でありました。
     明けて昭和三年一月東北帝国大学理学部講師を任命され、昭和四年四月には大阪工業大学の助教授、翌年五年四月には教授になられ、昭和八年四月新しく誕生した大阪帝国大学教授となられました。御年三十四才の若さであり、先生がいかに優秀な学者であられたかがわかります。
     昭和十年一月に有機化学研究のために、満一年半スイスのチューリッヒ工科大学に留学され、後のノーベル化学賞に輝いたクーン博士、カーラー博士の研究室で天然有機物のクロマトグラフィーの御研鑽をされました。
     昭和十五年九月に勲四等瑞宝賞受章され、同十九年三月に勲三等瑞宝章、同四十六年四月に勲二等旭日重光章を受章されました。
     昭和八年から退官される三十八年三月までの間、大阪帝国大学と大阪大学発展のために粉骨砕身されてつくされ、大阪帝国大学評議員、大阪帝国大学振興委員会委員、大阪帝国大学復興委員会委員、新制大学実施委員会委員、大阪大学工学部部長を歴任されました。
     昭和三十八年四月大阪大学名誉教授となられました。
     御研究の面では、「有機化合物確認法」「クロマトグラフィー」など多くの著書をあらわされ、研究論文も国内外の雑誌に数百篇発表されておられます。
     昭和二十七年三月にはタール工業会からタール有功章を受章され、昭和三十八年四月には「クロマトグラフィーの理論と実際に関する研究」により、日本化学会より最高の栄誉である学会賞を受賞されました。
     平成三年五月に従三位に叙せられました。
     先生の偉大な御業績にただただ頭が下がる思いでございます。

    三、先生とドイツ語

     ドイツ語の原書を見ながら実験に打ち込まれた先生、ヨーロッパをくまなく歩かれた先生はドイツ語がたいへん堪能でした。
     化学研究にドイツ語は必須と主張され、私が旧制大阪大学工学部応用化学科を受験した昭和二十五年には、ドイツ語と英語の二科目の試験があり泣かされました。
     しかし先生のおかげで私は現在でもドイツ語が得意で、専門分野の論文ならば辞書なしで翻訳ができます。
     ある日のこと、私が船久保教授室の前まで行くと中からカタカタとタイプを打つ音がきこえてきます。おそるおそる許可を得まして入室しますと、なんと先生は日本語のレポートを横において、いきなりドイツ語の論文を英文のタイプで打っておられるのでした。こんなに驚いたことはありません。
     その論文はしばらくしてドイツの燃料雑誌「ブレンストッフヘミー」に掲載され、先生から別刷りが送られて参りました。
     それは私の宝として、書棚に飾られています。

    四、先生と私

     先生にとって私は不肖の弟子ですが、先生が生涯のテーマとされた「有機化合物類のクロマトグラフィー吸着分離」をうけついで「石油類のクロマトグラフィー吸着分離」を四十年間にわたって研究開発し、現在も継続していることは私の誇りであり、喜びとするものであります。
     昭和二十七年四月から二十八年三月(旧制大学三年生)までの一年間船久保研究室で「コールタールのクロマトグラフィーに関する研究」を行いました。
     東京ガスにおける実習はたいへん有意義でした。先生のご指導により卒業論文を無事まとめることができました。
     当時はまだ世の中が不況でたいへんな就職難の時代でしたが、先生は親身になって就職のお世話をしてくださり、当時、昭和石油(株)の常務取締役をしておられた別府良三氏(元海軍中将)に、九州大学時代に同じ研究室で研究された御縁から懇切な推薦状を書いてくださり、難なく昭和石油(株)に入社させて頂きました。
     昭和二十八年四月昭和石油(株)に入るや直ちに中央研究所に配属されました。
     石井直治郎研究所所長(現上智大学名誉教授・工学博士)が船久保先生のことをよく存じておられ、「コールタールのクロマトグラフィー」を「石油のクロマトグラフィー」へ応用、発展してほしいといわれ、即日研究テーマが決まりました。
     これが私の生涯のライフワークとなったのであります。
     船久保先生にお願いして、「クロマトグラフィーの理論と実際」に関して何度も中央研究所で講演していただき所員一同どれほど感銘を受けたことでしょう。
     私の研究も大いに進展し、石井所長から学位論文にまとめるようにとすすめられ、船久保先生御指導のもとに完成したのが昭和三十六年でした。八年間の研究の結晶です。
     船久保先生が主査をしてくださり、論文「石油類の液体クロマトグラフィー吸着分離に関する研究」が大阪大学教授会の審査をパスしたのが同年十二月、翌三十七年二月に学位が授与されました。旧制学位制度の最後の年で、私が三十二才の時で、この感激は生涯忘れることはできません。
     
    五、先生のユーモア

     先生は謹厳な学者であるとともに人間味のあるユーモア溢れる御人柄でありました。
     先生の随筆の中から抜粋致します。
     時は、昭和四年四月大阪工業大学開学のころであります。
    ○海老フライ
     海老フライは私(先生)の大好物である。ところが、開学当時は持参の弁当以外は厳禁であって、一切の食物を学外から搬入することは出来なかった。学内に出入りする商人は研究用機械、器具および薬品などの関係者に限られていた。
     私は、コーヒー・ブレイクには大学正門の近くにある粗末な喫茶店「ナショナル」で過ごした。弁当持参の鉄則は私にとっては意外に大きな負担であった。なんとかして、教室で先生方と一緒に海老フライを食べてみたいという些細な希望が湧き、色々と対策を考えているうちに、フト若かりし頃の一種の冒険的経験を思い出した。
     それは、大正七年から八年(仙台市第二高等学校学生時代)にかけてスペイン風邪が大流行し、肺炎で死亡する人が空前絶後と言われる程の数に達したことがあった。このような時に、私の友人「新津君」の父君は内科医として立派な医院を経営していたにも拘らず患者が極めて少なく、坐して患者を待つ時間の方が長かった。私達は、色々と考えた末に、父君を人力車に乗せ、法被を着た一人の車夫は車を引き、他の一人は、後から車を押して、仙台市内の賑やかな町を縦横に走らせたが、勿論患者の家に行くわけではない。夜は「新津病院」と大書した提灯を車の前後にぶら下げて、昼と同様に二人引の人力車で走りまわらせた。
     すると、新津先生は二人引の人力車で昼も夜も東奔西走の患家廻り、医院の方はいつも不在の多忙さ、これは今度の風邪についての素晴らしい優れた先生に相違ないという評判が広がり始めるに至った。
     このようにして、私達は予想以上の成績を収めることができた。
     私はこの方法を再び実行してみることにした。
     まず、学内に出入りする商人には用度掛と門衛の二つの関門がある。私の海老フライは当然ここを通過せねばならない。
     私は、まず用度掛を訪ねて、私の希望を率直に縷々説明することによって、少々長時間を要したが、遂に許可を得ることに成功した。
     次は、門衛であるが、現物を入れた「おかもち」を「ナショナル」の店員に持たせ、用度掛の許可を得たことや、私の希望などを丁寧に説明して諒解を求めた。ここは、極めて難攻不落の堅塁であって、長時間かかって辛うじて攻略することができた。
     このようにして、私の海老フライは堂々と大学の正門を通行することができた。
     遂に、私は第二の冒険にも成功することができた。非常に嬉しかったことは、それから、次第に日が経つにつれ、「おかもち」の中の皿数と料理の種類は増加し、応用化学教室だけではなく、他の教室にまで配達するようになったことであった。
     そして、何時の間にか我々は、檻から飛び出たように、のびのびと自由な空気に包まれて、楽しい一日を大阪工業大学で過ごすことができた。(中略)
     なんとも微笑ましい風景であります。先生の御人柄が偲ばれてなりません。

    六、先生と富士デヴィソン化学(現富士シリシア化学(株))

     富士デヴィソン化学(株)(FD社)は、昭和四十年にシリカゲル専門の合弁企業として設立され、吸着剤の総合的な供給態勢を目指しました。
     当時、FD社の創立者であった高橋勝社長が大阪大学工学部原子力工学科の教授であった吹田徳雄先生と都島高工時代の同級生であった関係から船久保先生を御紹介していただき、FD社の技術顧問にお迎えしたのでした。
     以来、二十五年の長年月にわたりまして、石油製品分析用シリカゲル(FIA)アメリカ・デヴィソングレードの国産化、吸着剤の評価並びに応用試験を目的とした動的吸着装置の製作と実験および全ヨーロッパの吸着分離工業の実態調査(昭和四十八年)等々、クロマト分野における数々の貢献をしていただきました。
     そして、これからの調査、研究開発を通じまして先生自ら昭和四十九年には「FD百年の大計」をまとめて下さいました。
     FD社は現在、この大計のもと、その指針にしたがいまして数々の課題に取り組んでおり、その一部は工業化されております。
     また、FD社の日向工場内にテクニカルセンターを設立しました昭和六十年以降、先生は遠隔の地にもかかわらず、たびたび御出張して下され、動的吸着分離の実験の御指導をしていただいたり、技術者を対象とした、専門的な講義を精力的に続けて下さいました。
     先生は、「私の知識のすべてを一日も早く吸収して役立てて下さい」というのが、FDに対する口癖でございました。
     そして、先生の積年の貴重な蔵書を一括してテクニカルセンターに寄贈してくださいました。
     この蔵書は船久保蔵書として図書館に収め活用していきたいと思っております。
     このように、船久保先生は、FDの発展の基礎づくりをしてくださいましたかけがえのない恩人であります。
     船久保先生の推薦により、船久保先生のあとを引き継いで、藤田稔は富士シリシア化学(株)の技術顧問を仰せつかり、一九八八年から二〇〇〇年までつとめさせていただきました。

    七、先生の自分史

     私が学生の頃、先生はまだお若かったせいかとても厳しく怖い先生でした。
     お年を召されるにしたがって先生はとてもお優しくなられたと思います。
     先生の三女の城野英子さん(御主人は大阪大学工学部教授)のお話によると、先生がお若い頃は、子供さんの教育やしつけの面ではかなりきびしかったとのことです。
     先生が八十才になられた頃、先生は青春の想い出と自分史をつづられています。
     先生がお亡くなりになられたあと、英子さんが先生の書斎に入ってみると先生の自分史がありました。自分史の一節には、先生の特徴ある文字で、
     「幼い頃学者になることを志して、博士になり、海外留学をし、大学教授になる、という夢を抱いた。艱難辛苦の道のりを乗り越え、それらの全ての夢を実現し、これまた夢であった芦屋の地に居を構え、今は静かに余生を送っている。自分の人生を振り返り、感無量である・・・・」と書かれてありました。
     城野英子さんからこのお話をお聞きしたとき、私は、いつしか目頭が熱くなるのを覚えたのであります。天才のような先生にしてこの言葉ありと。
     そして、「船久保先生、どうか安らかにお休み下さい。そして、私達をいつまでも見守っていて下さいね」と心からお祈り申し上げたのでした。                             
                                              (完)

             【船久保英一先生の90才のお祝い  1989年  大阪工業会館にて】


               
  •   管理者 : HPマスター (2009/03/27 10:18)